2008年1月29日火曜日

花背はやっぱりすごかった

週末とても寒くて、雪がかなりぱらついていた。それでも家の付近は全然雪は積もらなかった。しか〜し、北の山は真っ白に見えていた。これは行かなくてはいけない、と思い、車に乗った。行き先は当然花背!!スタッドレスに4輪駆動とくれば行かないわけにはいかない。毎年、雪が積もると花背に走りの練習に行くことにしている。普段から雪道に慣れておかないと、いざという時に困るしね。実際には単に楽しいからやけど。
 行程は、宝ケ池から市原、鞍馬を通って、花背峠へ。さすがに車は少なかった。のぼりは滑っても怖くないからまあまあのスピードで上って行く。何カ所かにあるヘアピンを回る時は特に楽しい。最後のヘアピンのところで除雪車と遭遇した。こんな時にはいつもがんばってくれてはる。感謝感謝。そのすぐ上が峠。気温表示は−2度だった。でも反対から上ってきた方には−4度と出てる。なんで??そのまま峠をすぎて花背の集落に向かって下って行く。こっちの方が若干道幅が狭いので楽しい。でも無理すると滑って壁面にボディをこすりそうなので、かなり慎重に、でもある程度は大胆におりて行く。無事おりれたら集落のはずれにある駐車場へ。そこは一面の雪。おりて歩いてみると、膝の辺りまでずぼっとはまってしまう。うーん、これぐらいの雪は楽しいなぁ。さすがに一晩で1mとか2m積もって、それが毎日だと嫌になると思うけど、たまにだからとても楽しい。贅沢やなぁ。少なすぎたら物足りないし、多すぎると嫌になる。人間てずるいねぇ。
 とりあえず雪と戯れてから、帰路につく。反対向きはのぼりが楽しい。広めなので、ちょっと速めにして、カーブでお尻を振ろうとしてみる。これが意外と振れない。やりすぎてぶつけるのも嫌なので、適当に遊んでかえってきた。峠の下りは狭いからかなり気を使う。対向車が見えて、ブレーキをかけると、ほぼ確実にアンチロックブレーキがくっくっくっくっと音を出す。早め早めの減速が重要〜。途中、ヘアピンのところで遊んでいる家族連れがいたが、あれは危険やなぁ。もし走ってる車が滑ってぶつかられたらどうするの?もうちょっと安全なところで遊べばいいのにねぇ。今晩も雪の予報。さすがに夜中に走りにいく元気ないなぁ。
おやすみなさい〜〜〜〜

2008年1月19日土曜日

もう13年も経つのですねぇ

 そう、あの阪神淡路大震災からもう13年も経つのですねぇ。あの時私は大阪市の東住吉区に住んでいました。前の仕事場が大阪だったので。地震の起きたのは月曜日の朝でした。寝ていて、地震の時に目が覚めたのですが、いつもの地震に比べていやに長い揺れやなぁ、と思ったのでした。おぼろげな記憶では数十秒続いたように思います。ほんとかどうかはわかりませんが。とりあえずすごい地震だと思って、テレビのニュースを見ました。その時、近畿地方で大きな地震がありました、とアナウンサーの人が言っていました。その時表示されていた各地の震度が意外と小さくて、あれ?と思っていたら、神戸だけ情報が出ません、と言い出して、そのうち神戸で大変な被害がおきてるみたいです、といい始めました。あまりに被害が大きくて、地震計が情報を気象庁に送って来れなかったようでした。もしかしてめちゃ大変?と思った頃に電話がありました。芦屋の埋立地に建っているマンションに住んでいる父親からでした。「そっちは大丈夫か?」の第一声。「は?結構長く揺れたけど被害は全然ないで」と言ったら、芦屋では建物の中でシェイクされてるみたいやった、とのこと。とりあえず親父さん達の住んでいたマンションは新しかったので建物は大丈夫だけど、ガス臭いからということで車にいるという話でした。その時は電話ができたけど、ちょっとしたら全然電話はつながらなくなっていました。その頃にはテレビでは町中から煙が上がり、阪神高速神戸線が倒れている映像や、ビルがこけている映像などが映っていました。私自身はとりあえず家族の無事を知って、あぁ、そんなもんか?という感じで、呑気に洗濯をしました。その時に余震で粉石鹸の箱が墜落して、石けんがいっぱいこぼれました。私自信の被害はそれが最大でした....なんか情けないなぁ。
 その後、仕事先の装置が壊れてないかをまず見に行きました。装置は大丈夫だったので、次は人の心配をし始めました(順序が逆やん)。どうやら仕事場の職員の人などが多数来てないし、連絡が取れない、ということでした。親の家の様子も知りたいし(どうやら電気・ガス・水道が全滅らしいということだったので)、同方向で気になる人(2名)の安否を確かめてこい、という指令を受けて、とりあえず水の入ったペットボトルを持ってバイクで芦屋に向かいました。出発したのは午後だったかな?
 芦屋までは43号線を使おうと思って弁天町辺りから43号線を走りました。その辺りは余裕だったのですが、西宮辺りに行くと、通れないところが出始めました。芦屋の家は埋立地なので、臨港線という道でよく行っていました。その時も西宮の辺りから臨港線を通ったのですが、何カ所か通れずに遠回りした記憶があります。でもなんとか芦屋にたどり着いたのはもう薄暗くなってからでした。芦屋の家ではちょうど電気が回復したところでした。家には妹しかいなかったのですが、話を聞くとほんとにすごかったようでした。家の中は復旧していましたが、地震直後は本棚が倒れて扉のガラスが割れたり、食器が落ちて散乱していたそうです。とりあえず水を渡して、一休みしてからさらに神戸市に向かうことにしました。向かう先は阪神御影駅辺りとJRの六甲道駅辺りでした。さすがに被害がひどそうで、バイクは無理と判断して、家でママチャリを借りました。芦屋から阪神御影まではやはり43号線を走りました。ちょうど阪神高速が倒れいていたところで、往きは高速の裏側を見ながら西に向かいました(帰りは表側を見ながら芦屋の家に戻りました)。さすがに高速道路は大きかった。こんなんが倒れるぐらいやからかなりの地震やったんや、と実感しました。その後、魚崎の辺りでは大きな火災が起きていました。消防の人がいるけど、水がないので手の施しようがないということでした。ほかにも電線が垂れていて、危険だからと車が前に進めないで困っている状況も多数ありました。
 なんとか御影の辺りにたどり着いたのは、夜の8時頃だったと思います。目的とする家は住所しか知らないので、とりあえずその辺りをぐるぐる回って、なんとか目的の家を発見したのですが、当然中はもぬけのからでした。でも家はつぶれてなかったので(それまでにも1階がつぶれた家をいっぱい見てきた)、探している人は死んではいないと思い、避難所に行ってみることにしました。まずは近所で空の一斗缶に木材を入れてたき火をして暖をとっている人たちに聞いてみました。すると近くに小学校があるから、そこかもしれないと言われ、とりあえず行ってみました。行くと、グランドに避難してきた人々の車がいっぱいありました。でも探している人は車は持ってないはず。そこらの人に話を聞いてみると、体育館にいっぱい人がいるとのことでした。そこで体育館に行ってみると....いっぱい人がいるのはわかるのですが、真っ暗で誰がいるのかなんて全然わからない状況でした。しばらく途方に暮れていると、同じように人を捜している人がやってきて、大声で「xxxさんいますかぁ???」と叫んで人を捜していました。その人が探している人はいなかったので、さっさと次に行ってしまいました。私もこれは声を出さないといけない、と思い、大声で探している人を呼んでみました。すると、返事があるではありませんか。とってもラッキーなことに一発で見つけることができました。そのご家族は好運なことに皆さん無事でした。その場ではとりあえず無事を確認したので、水のペットボトル(確か2リッター)を渡して、明日またくる、と言って次の人を捜しにいきました。その人の家の近くに言って、避難所の場所を聞いて行ってみました。中学校だったと思います。そこには名簿があって、その名簿を見たら、避難してきている人がわかるようになっていました。その名簿には名前がなく、仕方なく目的の人の住んでいたマンションに戻ってみました。すると駐車場で集まっているグループの人々がいたので、聞いてみるとその人は無事で、別の避難所(小学校だったかな?)に行っているのかも、ということでした。とりあえず無事ということだったので、その日は芦屋に戻ることにしました。その時すでに夜の10時を過ぎていたように思います。
 そこから芦屋までが遠かった。疲れもあったし、意外と距離があったので。帰りも火災の現場を通ったり、つぶれた家屋もいっぱい見ました。道には車があふれかえっていました。町から避難しようとする人はわかるけど、神戸の中心に向かっている車に乗っている人たちは、何を考えているのか?と思いました。ビルが倒れたりしている、ということは、道はまともに使えない、ということです。当然渋滞して車は動けないはず。そんな時に車を使ってどうするねん????だいたい、なんで尼崎の辺りで大阪府警が交通制限をすぐにしないのか不思議で仕方なかった。おまけにそんな一大事なのに、大阪では普通に仕事をしているというのが信じられなかった。なんで3日ぐらい周辺の市をみんな休みにして、救助にかり出さないのか?と思いました。自衛隊はすぐに動かないし。映画とかだったらすぐにヘリコプターがいっぱい飛んできそうなものなのに、飛んでいるのは取材のヘリコプターだけ、という感じだったみたいです。偉そうに言っても、日本人のほとんどは危機管理が全くできてない、と実感しました。その時の首相が村山さんだったかな?ひどかったなぁ。後で友達(外科医、芦屋市在住)から聞いたところでは、近くに医者が足りないから、君近いし行ってくれないか?と言われたそうです。その友達はそんな暇あるか?と怒ったそうです。当然です。当事者は自分たちのことで手一杯でした。そういえば市役所とかの被害想定では、みんなが無事に登庁できるとして対策が立てられていたそうです。実際に来れたのは半分程度じゃなかったかなぁ?今でもそんなひどい想定をしているところがないとは限らないよなぁ。
 芦屋の家に戻ったのは午前1時頃でした。さすがに疲労困憊でした。親に経過を伝えて、私は寝ました。それでも朝6時頃起きて、一度大阪に戻りました。次の日はちょっとした食料を持って、再び御影まで行きました。その時は最後までバイクで行ったかな?東京に就職していた友達は、なんで神戸に帰って人助けをしないんだ?と言われて、一週間ほど休みをもらって戻ってきました。友達は西宮から神戸まで歩いたそうです。電車はすべて止まっていましたから。地震の2日後に親父に頼まれて、大阪の堺筋の辺りで原付を買って、芦屋まで乗って行きました。遠かったなぁ。私の知っている人達は無事だったようですが、かなりの人が亡くなっていました。その後も大きな地震が新潟や能登などでおきましたが、人口も密集具合では神戸の地震が最悪だったと思います。それだけ人的な被害も大きかったのだと思います。
 そんなことがあってから、もう13年が経ちました。長いような短いような13年でした。その間にいろんなことがありました。東京にいた友達も別の件で今はもういません。うちの親は未だに同じマンションに住んでいます。その辺りは地震の時の傷跡はほとんどなくなっています。その後、高校からあまり遠くなかった新長田の辺りを訪れると、家がほとんどなく、空き地ばかりでした。建っているのは新築された家々だけでした。数年後でもかなり空き地がいっぱいあったのを覚えています。さすがに最近は徐々に地震の傷跡は減りつつありますが、それでもまだ長田の辺りはもとに戻ったという感じにはなっていないと思います。それでも神戸はがんばっていますよね。がんばれ神戸
 二日遅れですが、黙祷。

2008年1月7日月曜日

遅ればせながら明けましておめでとうございます

遅くなってしまいましたが,明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。いやぁ,あっと言う間に一週間が経っていました。あまり正月らしくなかったような気もするなぁ。一応親の家には行ったけど,結構自分の家にいたし,仕事場にも顔を出していたし。ま,それでも一応年が変わったので,おめでたいですね。今年の目標は何にしよう。バイクにいっぱい乗る,かな?皆さんの目標はなんですか?