2008年11月27日木曜日

みんな困る事は同じみたい

前回、dwmapi.dllのことを書いた。最初はとても驚いたし、比較的早くかつ意外と簡単に解決できたので、みんなのためになるかも、と思って前回dwmapi.dllの事を書いてみた。これが結構検索で引っかかっているみたい。このblogはアクセスログを取っているのだが、ここ数日はほぼ毎日数件、dwmapi.dllが検索でひっかかってこのページにきてくれているみたい。きっと検索した人のごくわずかな人が見にきてると思うから、毎日かなりの人がdwmapi.dllで検索をしていると思う。つまりそれだけよくトラブルが起こっている、ということを示している。なぜこんなにトラブルが多いんだろう?私の場合、メーカーのサイトでIntelのアップデータを見つけて、vista用というのをちゃんと確認せずにダウンロードしてしまったのだが、みんなも同じようなことだったのだろうか?残念ながらこのサイトはコメントを入力するようにはしてない(まめに返事をする暇がないから)からわからないが、どこかでみんながトラブルになってしまいそうな構造的な欠陥があるような気がする。ドライバーのアップデータの紹介でvista用というのが強調されてないのだろうか??そもそもアップデータ自体もOSのバージョンを判断して、XPならアップデートを中止するべきだと思う。やっぱIntelが悪いからではないだろうか?私はMacintoshも使っているし、FreeBSDも使っている。どのOSのどんなアップデータかをすぐに思い出せないが、アップデータによっては、このバージョンには適用できません、と言ってくれるものがよくある。利用者の立場に立てば、そうすべきだし、実際多くの場合(きっとwindowsも)OS等のバージョンを確認してアップデートしてくれているので、今回XPならアップデートしない、としていなかったIntelが悪いと思う。Microsoftに比べるとまだましだが、Intelも相変わらずいまいちの会社やなぁ。ぶつぶつ

2008年11月19日水曜日

dwmapi.dllって何?

先日,コンピュータを買った。買ったのはバッテリーのもちを考えて○○ソニックの○○ツノート。黒が欲しかったのでわざわざ直販サイトに行って買ってしまった。で,届いたのが申請書作成期限直前。泣く泣く数日は箱の中で熟成させていた。その後,箱を開けてさっそく起動してみた。当然今ならOSはVista。でもVistaってあまり評判がよくない。それに以前と同じ状況にしようと思うと,今までのソフトが働くかどうかが問題。新しく買わないといけないとなるとかなりの出費になるしなぁ。と,いろいろ悩んだ挙句,XPへのダウングレードすることにした。一応ダウングレード権ってのがあるマシンだったので。XPへのダウングレードは順調に進んで,いろんなソフトも全部いれて,順調と,思っていたら,ドライバー等のアップデート情報がでていた。新しいのにすぐにアップデートなんやぁ,と思ったが,アップデートは基本的にした方がいいと思っているので,アップデートすることにした。ところがここで大失敗してしまった。

 幾つかアップデートがあったが,一つはecoモード用のソフト。これはバッテリーを80%までしか充電せずに長持ちさせるってやつ。これのアップデータを取ってきてインストールした。で,再起動するとecoモードのアイコンがない。あれ?なんで?と思ったが,どうやらアップデータは既存のソフトがあると,アンインストールをするだけみたい。もう一度入れなおすとうまくいった。これは言うほど大失敗ではなかった。

 さらにvideoのドライバーをアップデートした。Intelのチップを使っているので,Intelのアップデータがあり,それをダウンロードしてきた。そしてインストール。すると途中,XP用として登録されてないけど,いいか?みたいなメッセージが出たが,気にせず続行。するとdwmapi.dllというdllがないと言うメッセージ。なんのこっちゃ?と思ったが続行。さらにKARNEL32.dllがないとか,他のもないとか怒られた。しかし一応最後までインストールができた。そして再起動~。すると画面が800×640ぐらいになっていた。なんじゃこりゃ?と思ったが,解像度を1024×800にして作業終了~~と思っていた。そして,マシンを閉じて休止状態にしようとした。ところが,休止にならない。いつもバッテリーを長持ちさせるために,持ち運びは休止状態にしてるのだが,おかしい。休止の作業中にマウスを抜いたりすると,エラーで休止状態に入れないことがあるが,今回はそんなドジは踏んでないはずだが....そこでもう一度マシンにログインして,画面のプロパティのスクリーンセーバーの窓から電源オプションに入ると,

 なんと,休止状態がない!!!

普通なら休止状態タブがあるはずなのに,そこにない。おまけに詳細設定の中の「蓋を閉じた時の処理」として「何もしない」しか選べない。何が起こったんや???仕方ない,スタンバイにしておこう,と思ってスタートの中の終了オプションを選ぶと,

 なんと,スタンバイが選べない!!!

なんじゃこりゃ~~~。はたと困ってしまった。何が起こったのかわからず,とりあえず電源をオフにして別の作業をした。その後,作業終了前に気を取り直してネットで調べてみた。やったことと言えばドライバーをアップデートしたことぐらい。でも症状は休止状態が選べない。何か関係あるんかなぁ?と思っていたら大ありだった。どうやらvideoのドライバーがおかしいと休止状態を選べないみたい。でもちゃんとしたアップデータを取ってきたはずなのに,と思ってメーカーのサイトをもう一度見てみると...しまった,Vista用のビデオドライバーアップデートと書いてあった。XPにダウングレードするとあかんやん!!タイトルに書いたdwmapi.dllで検索してみると,dwmapi.dllはVistaにしかないdllらしくて,XPだと存在していないらしい。それでdwmapi.dllがないって文句言われたのかぁ。仕方ないから以前の設定に戻したいと思ったが,メーカーサイトには以前のvideoドライバーは置いてなかった。DVDを読ませないといけないか?と思って,マイコンピュータのプロパティのハードウェアからデバイスマネージャーを空けてみると,ディスプレイアダプタに黄色いマークがついている。そこを右クリックしてみる。ドライバーの更新を選ぶが,今はインストールDVDがないから断念。次にプロパティを見てみる。ドライバというタブの中にドライバの詳細とかドライバの更新とかあるが,その中にドライバのロールバックというボタンを発見!!おや?これでいける?と思ってボタンを押してみた。するとうまくいった。再起動したらちゃんと休止状態が選べた。これでなんとか復帰できたみたい。そういえばデバイスドライバーでディスプレイアダプタに2個あったが,1個消してしまった。あれは外部ディスプレイなのかな?ま,同じドライバだからきっとなんとかなるよね?と思った一日でした。

(追記:ディスプレイアダプタのドライバーが1個消えたが、いつのまにか2個になってた。ま、同じものみたいやったから勝手に増やしてくれたみたい。ほっ)

2008年11月12日水曜日

そういえば

そういえば,今日は死んだ兄貴の命日だった。兄貴は私より2歳半年上で,学年で言うと3年上だった。小さい頃はいつも兄の後ばかり追いかけるような子供だったらしい。その兄が脳の病気(脳腫瘍かな?実はよく知らない)にかかったのが,私が小学校3年生の終わりぐらい。兄が小学校の卒業を控えた頃のことだった。その当時は姫路に住んでいた。最初はすぐに退院できるかな?と思っていたが,兄が中学になっても入院したままで,病院内にあった特別クラスみたいなのに入っていたように思う。その後,手術をするために神戸にある県立子供病院に入院していた時期もあった。日曜日に車で姫路から神戸までよく見舞いに行かされた。でも,子供病院は健康な子供は病室には入れてもらえない。入院している子供がうらやましがるからだ。だから,病院に行くのはとても嫌だった。当時は車酔いしてた(今からは想像できない)というのもあるが。そこでよく食べていたカップヌードルはトラウマになって,今でもむしょうに食べたくなる時がある。私が小学校6年生の時に一度危篤になったことがあった。その時,私は夕方友達の家に遊びに行っていて,ルパン3世(最初の作品。ジャケットが水色だった)の再放送を見ていた。その後,家に帰ると兄が危篤だからすぐに病院に来い(その時は姫路の日赤病院に戻っていたと思う)と言われて行った記憶がある。探してもすぐに見つからなかったと怒られた記憶がある。6年生の子供に,事前にある程度説明せずに家にいとけ,なんて無理だよなぁ,と当時ぼんやりと思った記憶がある。その後,父の転勤のために神戸に引越した。私が6年生の夏休みの終わりだった。あの時はさびしかったなぁ。だって,もうすぐ卒業なのに,最後の2学期だけ他の小学校に行かないといけなかったから。それが神戸の東灘区にある小学校で,その辺りは3月1日は中学受験でクラスの7~8割が休む,というぐらいの学校だった。あの辺りはみんなそうだったかもしれない。たまたま風邪で3月1日に休んで,友達に昨日は人が少なくて寂しかったでぇ,と言われた記憶がある。私は中学を受験したりしなかったので,そのまま公立の中学に行った。住吉中学という,神戸でも指折りの不良がいっぱいいる中学だった。でも,最初からいるとおでこに剃り込みが入ったいかつい奴もみんな友達だった。何故かそこで委員長と言う役をやらされたが,率先して先生に怒られるようなことをしていた記憶がある。

 兄貴が死んだのは中学1年の秋だった。部活動から帰ってきたら家の周りがばたばたしてた。兄貴が死んだと聞いたのは誰からだっただろう?近所の人だったような気がする。死んだ兄貴には申し訳ないが,その時は兄貴が死んでほっとした。何故だろう?それは兄が治る見込みがほとんどない,というのを聞いていて,かつ,看護のために両親が代わる代わる病院に泊まりこんでいたからだと思っている。病院に泊り込むと親は家にいれない。だからまだ小さかった妹は祖母の家に預けられていた。親が疲れているのもなんとなく感じていた。それでも治る見込みがあればいいけど,兄は治療のせいか薬のせいかはわからないが,髪の毛は抜け,ぶくぶくに太ってしまい,小さい頃追いかけた兄とは似ても似つかなくなっていた。さらにしゃべることもできず,植物人間のような状態だった。そんな兄を見るのは嫌だった。でも積極的に死んで欲しいとは思っていなかった(と思う。あまり覚えていない)。そりゃ,元気になってくれるならなって欲しいと思っていた(と思ってる)。でも,それはどうも望み薄で,神戸に行ってからも何度か危篤だと言う話を聞かされていた。なんとなくだが着実に死に向かっているように感じた。兄も苦しんでいるように感じてた。だから,死んだ,と聞いた時,ほっとしたのだと思う。でも,ほっとしたと言っても,普通のほっとした,例えば,人前に立たないといけなくて緊張してたのが発表が終わってほっとした,というのとは全然違っていた。何か大きな時代が一つ終わった,という感じだった。

 その後,葬式の準備などですごくばたばたしていた。狭い社宅だったのだが,めちゃくちゃ狭い~と感じた記憶がある。親父はがんばって広い家に住もうと思って,神戸の西の方に家を建てていたのだが,残念ながら間に合わなかった。棺おけに花を入れたのだが,その時見た兄貴の顔は血の気が引いて,もの,という感じだった。死んだらこんな風になってしまうのか,と思った。その時はさすがに涙がいっぱい出てきた。あの時は火葬場に連れて行ってもらった記憶がない。連れて行くだけは連れて行ってもらったのかもしれないが記憶にない。兄の後で,祖母と祖父二人が亡くなったが,その時には火葬場まで行き,後で骨を集めて骨壷に入れた記憶があるが,兄の時はどうだったのだろう?忘れてしまった。葬式が済んでから,東灘の社宅から西区にある家に引越しをした。その後,毎年のように秋は法事だった。正座が不得意で,法事は辛かった。椅子でできればもっとよかったのになぁ。兄の遺骨は祖父母の立てた墓と親が立てた墓に入れてある(はず)。そういえば最近全然お参りに行ってないなぁ。今年はいけるかな??

 何年かして神戸の家は引き払って親は芦屋浜に引っ越した。前の家の辺りは遠くから見ると神戸淡路鳴門道が近くを走り,住宅地が延々と広がっているようだった。見たのは神戸淡路鳴門道を走りながらだったのだが。私は中学の残りの2年ちょっとと高校の間と大学に入ってしばらくの間住んでいたが,考えてみると住んでいたのは7年ほどだけだったことになる。もっと長く居たように思っていた。うーん,時間の尺度が狂ってきたなぁ。さすがに歳をとったかなぁ?????

2008年11月11日火曜日

時代

同窓会絡みのねたでもう一回。かなり同窓会ではまったなぁ。

 今回は同窓会の時にもらった冊子。同窓会が毎年出しているもの。その中に各回生の方が一人なにか書いてるところがある。一番古くは旧制中学7回生。卒業が昭和7年らしい。御歳94歳。すごい。まだ7名がご存命とのこと。卒業生は208名だったらしい。ご存命の7名の方々には直接架電されたらしい。いいなぁ,この表現。なんかいい時代って感じがするなぁ。次に古い方は旧制中学9回生。この方は昭和9年に卒業されてから就職されたが,昭和12年に入隊,満州事変に参加し,13年にバイアス湾上陸広東攻略。16年佛印ハイフォン上陸。18年応召ジャワ島上陸。10月シンガポール上陸。20年1月ビルマ国アキヤブ南方で被弾。その後戦況悪化のため野戦病院が解散。患者は各部隊ごとにタイ国へ。姫路の兵隊86名をつれて雨期の途なきジャングル突破,3ヵ月後タイ国到着は3名のみとなる...その後ベトナムで戦闘がおこり,佛印軍の命によりベトナム戦にも参加され,21年5月に大竹で復員とのこと。現在92歳の方だった。すごい人生を歩んでこられている。すごく運のいい方だと思う。それだけの経験をされて,なおご存命とは感服することしごくでありました。

 で,うちの回生はと言うと,同窓会開催のお知らせが載っていた。この冊子は7月1日付けなので,それは当然かもしれない。ネットで高校を検索すると県下で1,2を争う進学校らしい。かなり偏差値が高いと書いてあった。我々の頃はどうやったっけ??ちなみに今でも体育の時にはグランド6週走ってから普通の体育をするので,体力がないとしんどいみたい。世の中単にがり勉ではだめってことですね。しかし今考えると中学高校でつけた体力が今の体力の基本になっているような気がする。やっぱりグランド6週,冬は20週,は重要だと思うなぁ。そういえば3年の時の担任は体育の教師だった。もう還暦とのことだ。その先生が言ったという噂では,進路指導はグランド6週の走りと見てると大体わかるらしい。実力を出さずにちんたらしてるやつは思っている大学に受からん。しっかり走ってるやつは受かる。結果は,って?結構当っていたような気がする。やるなぁ,あません!

 ちなみに投稿時刻はいじってある。ゴロがいいから

2008年11月8日土曜日

人を探す

先週の日曜日に高校の同窓会に行ったが,25年ぶりということでとても楽しかった。その時に高校の時の同じ部にいた連中と一度会いたいということになった。部の連中とも年賀状ぐらいしか交流がなかったし,年賀状もよく忘れたりしてたので,会うなんてことは全然なかった。ところがこの間の同窓会で7名が出席して,他の奴はどうしとんねん,ということになった。そこで一度名簿を作ろうということになった。その上で年末ぐらいに一度神戸に集まろう,ということにした。年末の幹事は神戸に住んでいるやつに押し付けたが,問題は名簿。そもそも同窓会が把握できていない音信不通者リストに2名も入ってた。全員で15名なのだが。音信不通者以外は同窓会の幹事に教えてもらえばなんとかなる,ということで,人探しをすることになった。問題は誰がするか。一応神戸に住んでいる奴に頼むぞ,と言っておいた。

 で,ある日,音信不通者リストにある別の奴(同じ大学に通っていたはずだが,入学以来全然あってなかったやつ)をネットで検索してみた。これがなんとどんぴしゃヒット。どこかの大学の先生をしているみたい。おまけに研究室訪問とかいう大学の記事も発見。顔写真まである。しかし顔写真だけ見てもいまいちピンとこない。似ているが,絶対とは言い切れない。ところが別のところで見つけたプロフィールを見ると,大学の卒業年が一致している。学部も合っている。名前も一致している。これは本人に間違いない,と思った。そこで,研究室のweb siteを探しすとメールアドレスがあった。いきなりだと怪しまれるかなぁ?と思いながらも,とりあえずメールをしてみた。いきなりで申し訳ありません,風の口調で。そしたらやっぱり本人だった。いやぁ,珍しいこともあるもんだ。懐かしい話をいろいろメールでやり取りして,最後に同窓会の幹事の連絡先を伝えておいた。ちゃんとメールしたみたいで,後で同窓会の幹事から礼を言われた。

 そうなると他にも探したくなる。そこで同じ部のやつを探し始めてしまった。これがいけなかった。結局最後まで探してしまったから。最初はかなり以前に年賀状をもらって住所と電話番号を知っていた奴に電話してみた。そいつは同窓会では音信不通者に入っていた。だめもとで電話してみた。これが意外とつながった。実は引越しをしていたが,電話番号が同じだったのでつながったらしい。とてもラッキー。葉書だとだめだったみたい。しばらく話をして近況を聞いたりしてから,メールアドレスを伝えておいてメールしてもらうことにした。連絡にはメールが楽なので。それにメールだと写真も送れるので,同窓会の時の写真を送っておいた。結構受けたみたい。かなり太ってるやつも居たからねぇ。次は住所を知っているけど,全然連絡してなかったやつに電話してみた。そいつは音信不通者ではなかった。ちょっと田舎に住んでいるので大丈夫だろうと思って電話したらやっぱり大丈夫だった。我ながら勘が冴えてるなぁ。そいつともちょっと話をして,やっぱりメールアドレスを聞いて,写真を送った。こっちでも受けてた。その二人に他のやつの連絡先を聞いてみた。それぞれ一人ずつ教えてもらったので,電話してみた。一人はすぐだったが,二人目は電話に出たのが子供だった。おまけに苗字が変わっていたので,「xxさんのお宅ですか?」と聞いても,「えっ?」という感じだった。しかし,ちょっとして理解してもらえて,本人を呼んでもらうことができた。結構どきどきだった。

 そうなると全員の連絡先を知りたくなってきた。神戸にいる幹事候補のやつにも連絡して,リストを作ってると伝えた。さらにメールのやり取りをしたことのあるやつらにメールしておいた。同窓会に来てなかったやつには写真も送っておいた。残るは3人になった。ひとりは住所を知っているので,電話したが誰もでない。仕方ないので,次の日も電話したがでない。その次の日もだめかなぁ?と思ったら電話に出てくれた。でも本人じゃなくて奥さんだったが。で,本人に連絡するように伝えて,電話を切った。これで連絡ができることがわかった。もう一人は実家に電話して連絡してもらうようにお願いした。そしたら後で本人から電話があって,「どないしてん?誰か死んだんか?」と切り出された。単に同窓会があって,連絡先を調べてる,と言ったら「なんやぁ」となった。で,メールアドレスを伝えておいて,メールをくれ,と言っておいたのに,まだメールがこない。ちゃんと伝えたはずやのになぁ。最後の一人が難関だった。震災で家が潰れていて,実家の連絡先がわからない。こいつは音信不通者リストに入っていた。今回最大の難関。確か医療機器関係の仕事をしていたはず。そこでネットで検索。すると特許関係のサイトで情報が出てきた。会社の名前がわかった。そこでまずはネットの問い合わせページで問い合わせてみた。しかし2日ほどしても連絡がない。仕方ないので電話してみた。いきなりで大丈夫かと思ったが,調べて教えてくれた。一応こちらの肩書きを伝えて,勤務先に電話してもらったのがよかったのだろうか?いきなり聞かれても教えてくれないよなぁ,普通は。そいつは会社を変わっていた。家の電話番号を教えてもらったので,かけてみた。すると奥さんがでた。元気にしているとのことだった。これまたメールアドレスを伝えておいた。すると夜中にメールがきた。仕事のプレゼンの準備を自転車操業でやっているらしい。みんな同じやなぁ。そこでメールでやり取りをして,同窓会に連絡するように伝えておいた。これでみんなわかったぁ,と思ったら,同窓会に来ていた奴で一人電話番号がわからないやつがいた。同窓会に来ていたほかの奴に聞いても誰も電話番号を聞いていなかった。みんな住所を知っているので安心してしまって,聞いてなかったみたい。これが困った。昔メールアドレスを聞いていたので,とりあえずそこにメールしてみた。これが返事がこない。次の日も来ない。その次の日もこない。仕方ないから同窓会幹事に連絡先を教えてくれ,と頼んでみた。それが昨日。まだ連絡来ない。やっぱり葉書を出して連絡してもらうのがいいかなぁ?と思っている今日この頃でした。

2008年11月4日火曜日

ノスタルジー

11/2(日)に神戸の三宮に行ってきた。理由は高校の同窓会。私の行っていた高校は神戸市内にあり,高台にあるグランドから高取山が見える高校だった。体育の時間にはグランド周りを6周走ってから授業があるという,大変体力の要る高校だった。旧制中学から続いている高校だが,私は(新制)高校の35回生。卒業してから25年も経ってしまった。ところがうちの回生は全体の同窓会というものを卒業以来やったことがなかった(らしい)。何故か?きっと頑張って取りまとめようという偉い奴がいなかったからではないだろうか?そういえばうちの代はいまいちまとまりがなかったかもしれない。いい言い方をすれば,みなが独自の道を行っていた,のかもしれない。あるいは「時代」の影響もあるかもしれない。

 しかしさすがに25年も経つとノスタルジーがむくむくと顔を出してくる。うちは親が転居してしまったために同窓会名簿上は音信不通者になっていた。で,同窓会に現住所を送ろうと思って高校のweb siteに行ってみた。一応連絡先のメールアドレスがあるがどうもあまり使われてないような気配。きっとスパムだらけで嫌気がさしているに違いない。ネットで住所変更とかできないものか?と思ってみたりもしたが,世の中の趨勢にもかかわらず,そのような便利な機能はなかった。さすがにお金をだして業者に頼まないとそこまではできないのだろう。でも,わざわざ電話するのもなんかいまいちこっぱずかしいしなぁ,と思いそのまま放置してしまっていた。

 ところが今年の初夏(だったと思うが),同窓会をするという話が伝わってきた。みんな考えることは同じやねぇ。どうやら同級生が2名も出身高校の教員にいて,同窓会(神撫会という)の雑務をやっているのに,なぜうちの代は全体の同窓会をしないのか?ということになったらしい。あんたらの回生は横のつながりが希薄やねぇ,とか言われたとか言われなかったとか。それが2年前のことらしい。それでやっと重い腰が上がって,生徒会長をやっていた奴が中心になっていろいろ準備して開催にこぎつけたそうだ。問題は連絡方法。どうやらかなり音信不通者がいたらしい。当時,10クラス,合計448名いたうち,かなりが音信不通ということだった。かく言う私も音信不通者だったが。どうやって連絡が来たかというと,ネットを通じて。mixiで同じ高校のコミュニティに入ってみたが,うちの代は10名しか参加者がない。おまけに35回生のコミュを作ってないから,誰が35回生かがわからない。そこからは同窓会の連絡は伝わってこなかった。来たのは別の,ネット上の同窓会というやつのひとつ。そこに登録をしていたらメールが回ってきた。送ってくれた本人も,ネットでそんなんがあったとふと思い出してメールをくれたらしい。おかげで無事同窓会名簿に名前が載ることになった。そのつてで他に知っているやつの連絡先も教えたが,あまり役には立たなかったかもしれない。しかし,私は仕事柄,webに名前と顔写真まであるから連絡できそうなものなのに,同窓会からの連絡はこなかった。メールアドレスもちょっと探せばわかるはずなのだが...。

 さて,同窓会はポートピアホテルを借りて行われた。参加費は12000円。ホテルを借りればそれぐらいはかかるわなぁ。2次会は4000円。きっと払った分のもとは取れないに違いない。最初はどうしようかと思っていたが,半数の参加を目標にしていてとりあえず会費は後でいいから,参加の意思を葉書で送れとメールで催促されて,参加するという意思表示をしておいた。そのうち当日が近づいてきた。どうしようかとも思ったが,なんせ25年ぶりやし,同じ部の同じ代のやつらとも全然顔を合わせてないから,たまにはいいっか?と思って行く事にした。

 三宮まではめんどくさいからJR。昔は私鉄以外は考えなかったのになぁ。三宮からはホテルのバスで行く事にした。だってタダだから。やることが中途半端やなぁ。バス停はバスターミナルの一角にホテルの送迎バス専用の乗り場があった。そこに行くとかなりの人が並んでいる。どこに行くのかなぁ?と思っていると,ホテルオークラ行きのバスがきた。すると1/3程度の人がバスに乗っていった。しかしまだいっぱい残っている。前のほうを見ると女性の集団がいて「懐かしい~」などと話をしている。どうやら同窓生の集団らしい。と見ていると後ろから声がかかった。高校の時の友達だった。一瞬「誰やったっけ?」と聞いてしまった。すぐに思い出したが,顔の輪郭がちょっと丸くなっていて,一瞬わからなかった。ちょっと待ったらバスがきて,ホテルへ。ホテルでは会場近くに行くと,見たことのあるような顔がいくつかある。「おー,久しぶり~。でも名前が思い出せん!」のオンパレード。とりあえず受け付けに行く。そこで名前を言うと3年の時のクラスのついた名札用の紙をくれた。そこに名前を書いて首から提げておかないと,お互いに相手が誰かわからへん,という状態。さすがに同じ部のやつはわかったが,それ以外はわからないやつも多かった。特に女性は化粧をしているので(....)特にわからなかった。記憶にない,というのもあるかもしれないが。男は多くが太っていた。かく言う私も10kg太ったが,見た感じはあまり変わらないと言われた。やたらと貫禄があるやつもいた。当時の教員の方もこられるとのことだったので,先生かと思ったら同窓生だったりした。結局130名程度の参加者があったらしい。同じ部にいて全然連絡が取れていなかった奴が3人もいて,とても驚いてしまった。しかし448名のうち7人ほどは他界していた。そのうち3人は知っていたが,まったく知らなかったやつもいた。冥福を祈りたい。

 会は開会の挨拶があり,学年主任をされていた先生が話をされ,立食で始まった。現在の高校の様子はかなり違っていた。これが同じ高校か?と思うぐらい違っていた。ちなみに今は8クラス320名が定員らしい。かなり少ないなぁ。体育の前のグランド6周は残っているみたいだが,雨が降ったらグランド周りを15周は親の反対でやめになったらしい。あれも今となればいい思い出なのに。顔を見てると徐々に当時を思い出したりしたが,結局全然思い出せない奴もいっぱいいた。困ったものだ。その後2次会にも(半ば強制的に)参加した。うれしがっていっぱい飲んだので,家に帰ってから吐く羽目になったが,会はとても楽しかった。連絡が取れなかった奴とも連絡が取れたし,また部の仲間でも会おうという話をして2次会は終わった。まだ飲むぞといわれたが,すでに飲みすぎていたので,おいとまして頑張って帰ることにした。それにしても神戸は遠かった。帰りもJRを使ったが,眠らないと吐きそうな気がしたので,頑張って寝た。さらに途中風に当たるために乗り換えたりしてなんとか無事にJRを乗り切った。駅を出てからは迷わずタクシーを使った。タクシーの中で徐々に吐きそうになってきたが,なんとか家まで我慢して帰れた。帰ってから胃の中に残っていたものを出してしまったら,楽になって後はぐっすり眠れた。

 今回の同窓会は最初はあまり行く気がなかったが,結局は行って楽しかった。久々だから余計によかったのかもしれない。会を主催してくれた世話人のみんなには感謝したい。かなり世話は大変だったと思う。次回は5年後らしい。参加者が増えるとよいが。とりあえず連絡がつきそうな奴らに連絡をしてみよう。